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私と「スタジオ」の思い出

私は現在「アニメーションスタジオ あさどや」に所属し代表者となっています、ですが私が発起人になって発足させたわけではありません。(詳しくは次回以降書きます。)

しかし私が発起人になって発足させたスタジオも過去にありました。

「スタジオD-HASH」というスタジオです。「ダッシュ」と読まそうと思っていたのですが結局「ディーハッシュ」と呼んでいました。この記事を書こうと久しぶりに「スタジオD-HASH」の事を思い出しました。また忘れないうちに、この「スタジオD-HASH」の思い出について語り記そうと思います。

1995年までは「スタジオぎゃろっぷ」にいたのですが仕事がなくなってしまったので「ストリートファイターⅡⅤ」という「グループタック」の作品をお手伝いさせていただいていました。

しばらくすると「他社の作品をここでされると困る」とぎゃろっぷ側と言われ他の行き先を模索するようになりました。

そこで漫画家をしていた友人「Aくん」とアニメーターを辞めてフリーターをやっていた友人「Bくん」三人でスタジオを作ろうと持ちかけました。

とんとんと了解を得てスタジオ設立を進める事となりました。

私はかなり舞い上がっていました、何しろいままでの職場は方や厳しすぎ人間関係密、かたや放任で人間関係希薄でしたから「友人と一緒に仕事ができる」いう事が嬉しくてたまりませんでした。

そして部屋探し等準備をしているところに「Aくん」から電話がかかって来ました。

「やっぱり一緒にスタジオを作るのはやめる」との事、

もちろん「Bくん」も「二人だけでは・・・」と言いこの件は白紙になってしまいました。

私の目の前は真っ暗になりました、うかれ過ぎた反動の落ち込み方は半端ではなく一晩中泣き明かしたのを覚えています。

しかし自分の楽観&楽天主義は強引な方向に進んでいきました。

「自分一人でもスタジオを作ろう」

そう決めたのです、一人だけでも大き目の部屋を借りて後からメンバー集めをすればいいじゃないかという結論に達したのです。

今考えるとなんと言う強引、軽薄なのでしょう、しかし今考えるとこれが「若さ」というものなのだと思います。

そんな時知り合いのディーラーさんが「車買わない?」と持ちかけてきました。車があればアニメスタジオが多い練馬まで実家から通えます、今住んでいるアパートを引っ越す感覚でスタジオとする部屋を借りれば出資額はあまり変わらない、「いける」と判断しました。

余談ですが実家に車が無かったわけではないのですが中古で古かったし「ラングレー」という「宮崎勤」が乗っていた車(笑)なので親に出資してもらい購入することにしました。

住居を田無から実家の草加に移し大泉学園の外環自動車道出口付近に部屋を借りて「スタジオDーHASH」はスタートしました。

「HASH」とは高校の部活作っていた同人誌のタイトルです、命名は「部」や「部員」から受けた影響が自分にとって大きい事に対してのオマージュです。

作画机も自作し、なにもかも手づくりのスタートでした。 そのうちに「Bくん」もたまにはやってきて仕事を手伝ってくれる事もありました。
その当時の私は元々の性格がのんびりなので「一年に一人ぐらい増えればいいや」ぐらいの気持ちだったのでしょう。

「ストリートファイターⅡⅤ」の仕事も楽しく「キテレツ大百科」で目標にしていた月産100カットを軽く超えてしまいました、線の多さが格段に多い「ストリートファイターⅡⅤ」の方が数上がるとは正直驚きましたが以前このブログで書いた [ モチベーションと「合う」「合わない」 ~その1.2.3~ ] はここで気づくわけです。

しかし団体に所属しない「フリー」という後ろ盾の無い状態は初めてだったので軽い「ノイローゼ」っぽい状態にもなりましたがその辺のストレスはは私生活(秘密w)で相殺していました。

春の終わりごろにスタートした「フリー」生活もなれた初冬、「ストリートファイターⅡⅤ」の総作監であった「江口摩吏介」氏から電話があり、

「今度『東京ムービー』で『ルパン三世』の劇場をやる事になったので一緒に来ませんか?」

というお誘いがありました、自分が評価されたと舞い上がり「スタジオD-HASH」が空家状態になる事など全く気にせず東京ムービーにはせ参じてしまいました。

この時の「ルパン三世」の劇場が『ルパン三世 DEAD OR ALIVE』です。

そして『ルパン三世 トワイライト☆ジェミニの秘密』と移行していきましたがこのニ作品の思い出は後日語る事にします。

『ルパン三世 トワイライト☆ジェミニの秘密』の放送が終わってもしばらくは東京ムービーの「ルパン分室」に席を置いて仕事をしていまいた。
「D-HASH」は自宅と東京ムービーの中継地点のようなような役割になっていました。

そんなある日「D-HASH」の留守番電話からPHSに転送された電話の内容は

「Bくん」が亡くなった、との知らせでした。

何がなんだかわからないまま現場の群馬に駆けつけたそこには共通の友人やそこで初めて知り合った「Bくん」の彼女がいました。

あまりの突然の出来事に一同泣きはらし途方にくれるばかりでした。

「Bくん」の実家が遠方であった事と季節が夏だったので群馬で荼毘に付した後地元で葬儀となりました。

それが切欠というわけではないのですがそれ以降「D-HASH」に戻って作業するようになりました。仕事中唐突に泣き出す事もしばしばあったので結果的にそれでよかったのかもしれません。

「Bくん」の彼女を元気づけようと電話をしたり家に遊びにマメに行くようになり、なんだかんだで付き合い始めていました(笑)

「一年に一人ぐらい増えればいいや」どころか減ってしまったので「D-HASH」のメンバーを増やそうと画策しました、とある制作が動画から原画に上がろうとしている新人を紹介されて早速招きました。

しかし一週間で逃げ出してしまいました、ちょっときつめに怒っただけなのですが(笑)

ただ逃げるだけなら良いのですがその新人の住所と電話番号を書いたメモを「改ざん」していく念の入り様(笑)

「やはり個人で『スタジオ』は限界があるな・・・」と思いました、しかし自分はどこへ行けばいいだろう?その時思い出したのがその当時「山口晋」氏が代表だった「安里屋(あさどや)」の存在です。

今回はかなり「私的」な内容になってしまいましたが「D-HASH」というスタジオが存在した事を多くの人に知ってもらいたかったので良い機会でした。

それに「Aくん」や「新人くん」の行動を常識はずれに思う方もいるかもしれませんがアニメ業界では当然のごとくよくあることなのです、いわゆる「ダメ人間」それをわかってもらうには良い事例だと思います。

次回はコメントにお答えして次々回、今回の続きである「あさどや」について書こうと思います。

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